研究者の探究本能を止めるのは難しい。


今から10年ほど前だが、とある有名薬品メーカに研究者として勤める友人と興味深い話をした。

様々な研究をしていると、探求をどこで止めるべきか、判断が難しいことがある、と。それが他愛もない実験ならいいが、なにかの使命を帯びた研究だった場合、例えば簡単に言えば爆弾とか科学兵器の研究だった場合、どうしてもその先の完成まで、そのまま追求してしまいたくなる気持ちが、自分は理解できてしまうのだ、と。時間と経済的に許されるならば、自分もやってしまう可能性はある、それが怖い、と彼は話していた。そう。ちょうど世間的に某教団の話題で賑やかだった頃だ。

彼は続けてこう言った。「例えば貴方が曲作りをしていて、もっともっと美しい音楽にしたいと思った場合、これ以上追求することを辞められる?完成度の高さを求めて続けるでしょ?僕らは理論上もっと優れたものを産むことが可能である、と判っていながら、これ以上は危険であると判断したら辞めなければならない。そんな毎日が辛くなることもある」と。

彼は寸止めの毎日を送っていたわけだ。これは何も研究だけではないだろう。戦闘の実践とかもそうだろうし、何らかの危機管理のシステムなんかもそうではないだろうか。


そう考えると、個人レベルでのアートなんかは、自分の気が済むまでいくらでも探求できるわけだよな。


コメント欄が大変な盛り上がりを見せたこのエントリ。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/d74c36ced9a7ab194b3685a4627281db

ここのコメント欄で福田氏が述べていることは個人的には非常によく理解できる。話の様子では素晴らしいプロフェッショナルシステムで仕事されているようだし、実に理想的だ。オレだって同じ環境だったとしたら、採算など考えず日々研究に没頭するだろう。どうやったら良い音になるか。世界の果てまでハンダや銅線を求めて捜し歩くかもしれない。しかし今となっては、もはや戦艦大和的なのであって、産業としてそれが求められてるかというと、ちょっと難しいと思う。


引き続き考えて行きたいので次回に続く。


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