それを生んでいるのも人間である、という想像力


せっかくの機会なので、この件に付いて記しておく。

これは日本人特有のメンタリティなのかどうか、オレには知る術がないが、確かに、ある時代までは、自分の好きな対象を「貶しながら褒める」という評価の仕方があったと思う。それは例えば親しい友人に対して「こいつはもう変態だからさ」とか半分からかいながら人に紹介する、といったものだ。それは実際は褒めたいのに素直に言えない、というような照れ隠しだったり、親しい仲ならではの遠慮のないやり取りだったりするのだが、そういう価値観って一世代前の感覚だよなあ、とも思う*1

一昔前までのポピュラー音楽評論にも、このような風潮があった。音楽家の、表面上にみえる何かの行動の奇抜さや、作品の中に見出す不整合性などといったものを抽出し、それらを晒しながらも「だがそれがいい」と表明するやり方だ*2


こないだの「鬼束さん記事」を見たとき、オレは即座にブライアンウィルソンを思い出した。言うまでもない。ビーチボーイズ創立者だ。彼はロックスターとして生きるにはあまりに精神が繊細だった。ゆえに、あのような死ぬほど美しい音楽を生むことも出来たのだが、引き換えに精神に破綻をきたしたのだ。彼の危行は虚実ない交ぜにされまことしやかに語られた。数々の文献を読み返すと、それらの原因は、回りの無理解にあった、と今になって判る。繊細な芸術家であるが故の発想や危行(と呼ぶのも好きじゃないが)を、正面から向き合い理解しようとせず、「さすが天才は考える事が違うわ」と、ある種、紙一重的に扱い、決め付けることで、こちら側への侵食を阻止する。それは実質的に受け入れ拒否でもある。それによって、どれだけその相手がダメージを受けるか。また、その決め付けは、自身の思考停止でもある。考える事が難しいから、「こうである」と決めることによって、その先の深追いをやめてしまうのだ。

一般的音楽ファンにまで、それを背負わせる必要はないと思うし、音楽などもっと気軽に楽しむべきものだ。しかし、音楽に携わったり、それにまつわるメディア、という、クリエイターに極めて近い位置に居る方々が、そのような排除的な発言を行う、ということは、個人的には、不用意で配慮に欠ける行為、とやっぱり思う。彼らは一般人ではない。選ばれて、あるいは、自ら選んでその職に就いている。つまり、そういう立場の人間であることの責任と義務が生じるってことなのだ。


楽家も芸術家も一人の人間である。自分も同じ人間であるなら、すこし想像力を研ぎ澄ませれば、その相手を理解できないはずがないのだ。いや、結果的に理解できなくても良い。でも判ろうとした、という努力の痕跡は示すべきじゃないんだろうか。


もうひとつ。「作品」というのは、その辺の石ころみたいに最初からそこに転がっているものではない。たとえば、しつこいようだが「サンマは漁師が採って来る」というのと同じ。作品を産んだ人間がいる*3。人間である、ってことは自分と同じように傷ついたりするってことなのだ。人は常に理解者を求めている。自分は誰からも理解されない、と。そうして孤独になってゆく。そういった気持ちが良い作品を産んでゆく原動力になる、というのは、それは確かなことではあるんだが、それでも、いま自分の目の前に居る記者なりインタビュアに「壁を作られた」と感じ取ったときの、この疎外感はどれだけのものか。また先に書いたような、落として持ち上げるようなやり方が(たとえ善意であっても)、どれだけアーティストを傷つけるか。そして、そこから生まれた感情は当事者間だけでなく、あらゆる人に伝わってゆくのだ。何故なら、それは誰もがみんな共通して持っている感覚だからだ。

少なくともそこまでの想像力を働かせる事が出来る人でなければ、メディア関連の仕事に携わる事などできないのではないか、と強く思うのである。


今のブライアンは、幸いな事に正当に評価されているし、理解してくれる友人仲間に囲まれて穏やかに精力的に過ごしているようだ。しかし、ロックポップス界全体を思うとき、そういった例は少ないほうだと判るはずだ。ブライアンはあれでも、愛される人に恵まれていたほうなのだ。60年代のアメリカ。そして今の日本…。同じ轍を踏まないよう、日々心がける事は出来ると思うよ。


関連エントリ
http://d.hatena.ne.jp/mrcms/20070617/1182048696

*1:この系列で、オレが個人的に一番嫌いな言葉は「愚妻」である。「亭主」が「嫁」の事を「うちの愚妻が」などという。へりくだってるつもりなのかも知らんが、この極めてデリカシーのない表現は、現在最も通用しない価値観だろうと思う(同じような理由で「俺の嫁」という表現もあまり好きではない。ネタならまあ目くじら立てないけど)。

*2:このような評論の仕方が、いったいどこから始まったのか、昔いろいろ考えた事があるのだが、音楽がジャズ→ロックンロール→ポップスと進んでくる段階で増えてきたように思う。クラシックが見事な職人芸&高度な専門芸として成り立っているのに対し、ジャズ→ロックンロールっていうのは大衆音楽なので、確かに稚拙だったり親しみやすかったりした。要するに突っ込みどころが有ったのだ。新規参入評論家の付け入る隙ができたということである。評論のハードルが、上記で示した矢印の流れに沿ってどんどん下がったのではないかな、と。

*3:この件は以前ここで書いてる。正確には「産んだ」という風にはオレは捉えていないのだが、ここでは便宜上そう書く。