自分の存在の証が欲しいのです。
前回の飯島さんのエントリに関してもうひとつ書いておく。
http://www.marimusic.com/archives/000472.html
(飯島さんの元記事が消えたので参考のためこちらをどうぞ)
ここで興味深いのは、達郎氏と製作したと言われるデモの存在だ。
オレも、それほど多くはないが、女性ヴォーカリストなどのプロデュースやアレンジなどやっている。アーティストと称する方々も実際は歌詞を書き歌っているだけ、ということも多く(別に悪いことではないが)、作曲アレンジプロデュースはこっちがやる、なんて事は多い。
この時点で、その子はオレにとってのコンテンツとなるわけだが、その扱いは非常に難しい。どうすれば喜んでもらえるか。相手の望む形にしてあげられるか。
こっちだって仕事だ。相手が満足できなければ仕事は出来ない。しかも、相手はアーティストと言う実に微妙な存在。
実際にオレは、アレンジプロデュースをした相手に「これのどこに私がいるの?あなたが居なければこういう形に出来ないってことは、これは私の作品ではないってことです。これは自分ではないです!」と、キツーク言われた事がある。
先日コンテンツを産む機械の話を書いたが(続き執筆中)、自分がそうされると不快なくせに、人にはしてしまうという、これもまた因果応報だね、と。
さて飯島さんの事例に戻るが、達郎氏だって好き勝手にしたわけではないと思う。ただあの方々(大瀧さん等)は、とかく自分色に染めるサウンドを売りとしてるところがあるので、誤解を生みやすいということはあるだろう。飯島さんの楽曲と声質、メロディライン等、綿密に分析し練り上げて、最良と思われるスタイルで提供したのだろうと想像する。
それでも飯島さんは「ここに自分が居ない」と感じた。それはアーティストとしてだけでなく、一個人としても実に真っ当な主張だと思う*1。
自分が存在する証。見たいのは明確な自分印というハンコなのだ。
このエントリを考えている最中、奇しくもこんな記事に当たった。
若者はなぜうまく働けないのか? - 内田樹の研究室
これは労働に対する価値観の世代間の違いについて述べたものだと思うが*2、それは音楽をやる人間でも変わらないのだ。
達郎氏も自身のエゴのために製作したわけではないと(オレは本人ではないが)思う。自分が望まれていること、消費者のニーズ、商品としての完成度、アーティストの魅力を最大限生かすこと等、綿密に練り上げて一級品を創り上げたとしても、飯島さんが「そこにまったく自分のニオイがしない」と思いダメダシしたら、その感覚が優先するってことだ*3。
完成品のなかに、自分自身の姿をほとんど見つけられなければ、自分印のハンコをポーンと押し、胸を張って人に公開するなんてことは出来ない。
いや。出来る人もいる。
しかし。
そんなの嫌だ、という人を責められない。責める筋合いもない。
これくらいデリケートだということだ。
そしてこれはアーティストに限らず、今の世の中全体がそうなっている、ということでもある。
欲しいのは報酬だけではない。それプラス、明確な「自分印」なのだ。それがあってこその存在理由であるし、やりがいなんじゃないか。
追記。
飯島さんの元記事が消えたので参考のためこちらをどうぞ。
http://aniota.jp/mt/archives/200703/06-1342.php
関連未来ログ。
http://d.hatena.ne.jp/mrcms/20080114/1200271487
関連エントリ。
当世プロデューサー論- POP2*0