「悪気はない」ことの罪深さ


最近よく知人と話すのだが、「悪気はない」という行為が、いちばん罪深く、ややこしく、困るよな、と。良かれと思ってやった、とか。


まだ悪意があったりするほうが、怒れるし抗議できるし叩きやすいし、敵にしやすい。


「偉大なる天然」ということにも近いが、悪意はないが、結果、ありがた迷惑だったり、迷惑を掛けたり、人を傷つけてしまう、ということの罪深さは、取りようによっては恐ろしいとさえ思う*1


そんなことを急に思い出したのはこのエントリを読んだからだ。

http://www.marimusic.com/archives/000472.html



この中で取り上げられている記事はこちら。


エントリの中で飯島さんが書いてらっしゃるとおり、元の記事の内容からは、執筆者の悪意のようなものは伝わってこない*2。しかし、簡単な言い方で言えば、「ちょっと軽く観ている」感じがする。



たとえばこれが松任○由実さんについて書く場合、このような書き方で書くだろうか、あるいは、このように裏付けも確認も取らずにアップしてしまうだろうか。


この記者氏(?)は、最初から、こういう記事にしたい、という大雑把な構成を決めた上で記事を構築していったようなフシがある。


つまり、この記者氏は、飯島さんに準えて自分自身の言いたいことを書いただけなのである。その為には、題材は飯島さんでなくてはならず、反論されるだけではすまないであろう松任○さんとか、そういう方々では出来なかった。とっても失礼な言い方で言えば「飯島さんが適当」だった。そんな記者氏の、おそらく本人も気付いていないであろう、裏の気持ちまで読めてしまう*3



これに関しては、過去ログも含め、このブログでも散々取り上げてたことであるが、アーティストというのは、誰かのための素材ではないし、惹き立て役でもない。手軽にアーティスト論を語ることで、そのアーティスト本人が何を感じるか、そういうことまで想像できないようでは、モノを書く人間としてどうかと思う。

もちろんこれはアーティストに限らない。誰かについて書くことにより、その書かれた人がどう思うのか。


もちろん書くなとは言わん。ちゃんとケアした上での書き方というものがあるだろう、と。これって、スペックとしての筆力(?)はあっても、洞察と考察の放棄のような気がしてしょうがない、と思うわけです。プロはプロらしくおながいします。知りたいのは事実なのであって、どうでも良い、あなたの感想や感傷ではないのだ、と。





それにしても。飯島さん、達郎氏のことも含め、率直に良く書いたなあ。感心する。ほとんどの人は、こういう率直な本音とかは言えないんだよ。こういう業界になっていって欲しいと思うね。



私たちが”季節ものの商品”であるという事は
悲しいながらもすでに承知とはいえ、私たちタレントにも”心”が
あるという事を覚えていていただきたいものであります。


追記。
飯島さんの元記事が消えてしまったので参考のためこちらを。
http://aniota.jp/mt/archives/200703/06-1342.php

*1:怒りたくとも、まぁまぁ悪気はないんだから…と宥められると、それ以上怒れなくなり結局、有耶無耶になったりするものだ。

*2:叩いてるとか、この世界にありがちな、そういう悪意はここからは読み取れない。むしろ、記者氏は飯島さんのファンだったのかも?という空気すら伝わってくる。

*3:そしてこのオレのエントリも、そんな「悪意のない罪深さ」的文章になってるかもしれない。