ナイスな壁越え


恥ずかしいエントリシリーズその2(その1はこっち)。別に隊長の影響ではないけど。


オレが壁を越えられなかった、もう一つの大きな理由。実はその時の彼女さんが未経験だったからなのだ。


自分を解放できず、恥ずかしい姿や顔を相手に見せてしまうことができない。それは裏返すと、自分に自信がない、とも言えるのだが、もう一つ躊躇していた大きな理由が「自分が今、この相手としてしまうと、彼女にとって自分が初めての相手になってしまうではないか」ってこと。

つまり「人生初」が、「こ、こ、このオレで良いわけで?」ってことなのだよ。


「オレが初?」
「マジでいいのか?」
「いやいや、そんなのダメだろ」
「もっとちゃんとした、かっこいい人とかにしろよ」


とね。ほんとマジでこれはずーーっと悩んでいた。その二つが自分にとっての、壁を越えて解放されるための2大試練だったのだ。


相手に、生きてて最も情けない「逝く顔」を見せること、それは別に恥ずかしいことでもない、むしろ二人でそうなることは当たり前のことなのだ、という価値観を村西とおる監督から教わった、と前回書いた。

自分という立場で考えれば「情けない」「恥ずかしい」となる。しかし相手はどうだ?

相手の女性は「情けな」くて「恥ずかし」くはないのか?オレは実は常に自分を基準として考えていたのだった。

そして壁越えだって同じだ。「彼女にとってオレが初かよ…」は、即ちイコール、彼女だって「あなたにとって私が初でいいの?」なのだ。


そんな基本的なことも、気づかず過ごしていたんだわ…*1


その後のことはここで語らなくても良いだろう。オレは彼女に、それまでの気持ちや村西監督のこと、自分の考えを、彼女に素直に伝え、彼女も納得した。


そろそろ読む方も書く方も恥ずかしくなってきたな。これくらいにしておく。



せっかくなので、オレが何を言いたかったのか、自分のブクマを引用しつつ、追記っぽく補足してみる。

まずこれ。
http://plaisir.genxx.com/?p=194
このブクマ、
はてなブックマーク - 独身女性の性交哲学 / 山口みずか - plaisir.genxx.com
でみんないろいろ語っているけど、村西氏のAVがそうだったように、やっぱりその瞬間を手抜きするものには幸せも訪れないってことなのだ。

前回のエントリで、わざとらしく「愛」と何度も記述した。現在「愛」というのは何か美しいものとか神聖なものとかとらえられてるフシがある。しかしオレは少し違う考えを持っている。この場合の「愛」は刹那的なものだ。だからこそ信じられるのだ。刹那的で少しでも油断すると、スルッとすり抜けて消えてしまう。だから真剣にしなければいけないのだ。もっともっとしっかりと確認して捉えて抱きしめて掴んでおかなければならない。そうして感覚を掴めばこそ、他のあらゆることにそれが応用できるのだから。その最中だけは決して手を抜いてはいけない。

最も基本的な人間同士の疎通。それが性行為である。


あとこれ。
http://d.hatena.ne.jp/hashigotan/20071213/p1
彼女に対してはいろんな人がいろんなこと言ってるのでオレは言う必要がないな。この彼女のエントリには心から同意できた、とだけ言っておく(オレのブクマコメが奇しくも前回エントリと共通)。


そして最後はこれ。
http://news.livedoor.com/article/detail/3419929/

村西監督もそうだが、出会いがなければあの展開はあり得なかった。例えば黒木香嬢。彼女が自己をとことん解放し、村西監督を、ひいては視聴者を煽ったからこそ、現在のこのAV状況がある。これは「セッション」なのだ。村西監督も黒木嬢も、一切手抜きなしのガチンコ勝負だった。だったからこそ、オレたちは全員感動した。

本気な人間だけが見せる刹那的な美。それを「紅音ほたる」さんも持っている。彼女が解放されて居るとき、それを鑑賞するオレたちも自己解放してることに気づけば、あとは、それを応用して実践するだけだ。


他にもオレのブクマの「対」カテゴリでも、いろいろ関連記事を読むことができる。


オレの当ブログにあるカテゴリ「対」は、人間は対で居て然るべき、ということから名付けた。もちろん音楽も同じなのだ。単体で独立しているものなどありえない。すべては関連性でありデジャヴなのだ。

*1:悲しいほどお天気の歌詞