ナイスな自己解放


いつか書きたい書きたいと思っていたがなかなか機会がなかった。今日こそは何とか書いてみるぞ。纏まらなかったら許せ。


以前こんなエントリを書いた。オレは誰に対しても心を簡単には開かなかった。だからこそ音楽もセッションも他人とはできなかったのであり、即ち宅禄オタク化した理由でもある。


セッションをよくセックスに例える奴が居るが、オレはそんな安易な例えは嫌いだ。と言いながら今回それに関して書いてしまう。ちょっと悔しい。笑。


ということでさ、心を他人に対して開けないってことはセックスもできないのである。というのは自分にとって逝く瞬間というのは人生最悪の情けない状態であり、その時の顔も人生最悪の情けない顔だと思ってたからだ。そんな姿を見せることは最高に恥ずかしくカッコの悪いことだと思っていた。

だから自分さえ気持ちよければそれで良かったし、相手のことなどほとんど考えなかった。


そんな自分の考えを180度変えたもの、それが「村西とおる」氏のAVだったのである*1

それまでのAVというのは何処かインチキくさく、三流の映画やドラマモドキなものも多かった。別にそんなストーリーなどどうでも良いというのに、学芸会レベルの映像が延々と続くものもあった。

そこには「たかがAVじゃん?」という制作者の卑下や軽蔑が垣間見れたし、何処か後ろめたいというか陰鬱というか、そんな空気がそこかしこに漂っていた。


しかし村西氏のAVは違った。女優(と言っていいのか?)は演技をしていなかった。いや、本当はどうなのかしらん。でもオレには演技に見えなかった。監督と女優の間に恋愛関係はなかったかもしれない、しかし60分間のそのビデオの中では、本当に愛し合う二人だった。リアルな愛の姿を「自分たちはすばらしいだろう?」とでも言うように見せつけた。

オレはすぐにその世界に夢中になり、次から次へと借りまくり、観まくった。どの作品の中でも、相手が誰でも、監督と女優は本当に愛し合っていた。


顔を見れば判るんだよ。その最中は本当に相手を愛してるってことが。撮影前後のことなんかどうでもいいんだ。ともかく、その撮影の間に行われてることは「愛」だったね。疑似とか架空とかインチキじゃない。本当にそうだったのだ。


オレは男女のその行為というものが、凄く大切で素晴らしいものだと、村西氏の作品で知った。彼の態度は誇りと自信に満ちあふれてた。恥ずかしいことなんかじゃない。情けなくもない。彼はすべてを肯定していた。

常に理性に司られている人間が唯一そのコントロールから外れる行為。解放される行為。


その世界を知ってから、オレは徐々に、恥ずかしさや情けなさといった呪縛から逃れる術をつかめるようになり、自己を解放する方法を覚えて実践できるようになっていった。


そして、不思議なことに、そういうことが実践できるようになると、音楽も変わっていったのだ。オレの音楽は昔よく「閉じている」と言われた。しかし今は「開いている」と思う。照れも恥ずかしさも含め、開いて魅せることで、活きた音楽になっていったのだと思う。


オレが昔のままだったらどうなっていただろう。童貞こじらせて未だに閉じた自分本位な音楽をやっていたかもしれない。


(次回へ続く)



おまけ。

そんなこんなで隊長。
魔法使いから盗賊に転職します: やまもといちろうBLOG(ブログ)

オレは正直嬉しかった。まだまだ先は長いが、違うものがきっと見えてくるはずだ。断固害氏だけに大きな顔させておくことはないよ?彼があそこまで強気なのは、妻子持ちであると言うことも大きな要素だと思うからね。それぞれが自分の愛を見つければ、彼にも勝つことができる。ぜったい。

*1:オレの記憶が正しければ、監督自らハンディカメラを持ち、女優と合体し、それを撮影する、と言うスタイルをメジャー化したのが村西氏だったと思う。「ナイスですね」は流行語にもなった監督の口癖。