カバーの封印からアーティスト化が始まる。
個人的意見と一応断っておくが。
オレはビートルズやらビーチボーイズやら、所謂おっさんホイホイ的ジャンルの音楽を弾いて歌えるので、どこでも本当に重宝される。珍しい曲もたくさんやるので本当に喜ばれる*1。
いつしかそれがうざくてうざくてたまらなくなった。重荷ではない。ただただウザイ。オレが歌うと「いいねー」と目を細めビールを口に運ぶ。そうか。そんなにキモチイイか。よかったな。とか、まあ良いことをしたな的な気分にならないことはないが、それも含めてウザイ。なんでオレはこんな気分にならなきゃいけないんだ?とね。
オレにとって音楽は人助けではない。ただの自己証明だ。それに共感するヤツが勝手に投影させて聴いてくれれば良い。しかしカバーの場合はそうではない。聴いたやつの自己証明の道具だ。別にオレじゃなくとも、同じ曲をやる別なヤツでもいいわけだよ。そんな大してメリットもないのにだ、こっちは無理矢理過去モードに引き戻され、自分が聴いてた当時の状況に陥らせられる。
もうひとつ嫌なのは、それを求めてくる奴らが過去のまま変わろうとしないところにある。オマエラいつまで70年代やねん??そんなん聴きたいんやったらナツメロロックバーでも行けや、みたいな気分になる*2。
自分はマニアック街道まっしぐらな人間だが、同じ場所にいつまでも留まってることが嫌いで、ひとつのアーティストをとことんしゃぶりつくすと次に進んでしまう。つまり例に出したビートルズにせよ何にせよ、恐ろしくマニアックなことを今でも知っているが、しかし通り過ぎたことである。とっくに卒業してるのだ。卒業ってことはちゃんと身に付いたから卒業できるのであり、いつまでもそこに留まるってことは身に付いてないってことである。
別にビーtpルズに限らずオレは多数のアーティストをしゃぶり尽くし卒業した。そうして今の立場がある。もちろんたまには戻ってみると新しい発見もあるが、大概はノスタルジーにすぎない。
オリジナリティというものは全てが身に付いた段階で生まれるもので、身に付かない状態で真似をしても付け焼刃であるし、それはただのパクリである。今はリスペクトと言う便利な言葉があるが、あえてパクリとリスペクトの違いを述べるなら、それは付け焼刃かそうでないか、じゃないかな。
馴染みがいいから、っつってライブでカバー曲歌ってる人がいたら、それを今敢えて排除することを提案したい。カバー歌ってる限りは、そいつの歴史を越えられないからね。
いかがでしょう?
実にスッキリすると思うよ。