音楽を産む人種、演る人種、聴く人種

またやってしまった…。


オレはもう、彼らと一緒にプレイすることは無いに違いない。


同じように音楽を愛しているように見えても、実際は3種類の人間が居る。彼らは典型的な「演奏して楽しい人種」だった。自分たちの好きなアーティストの曲や好きな曲を、その対象になりきって演奏する。もしくは自分なりに解釈して演奏してみる。そういうことに楽しみを見つける人々だ。彼らは、既に存在しているもので楽しむのは非常に得意である。しかし「産むこと」が不得意な人たちなのであった。


「どうやっていいのかわからない。練習してるのだが…」
「いや好きなようにやってくださいよ。オレのデモのとおりでも良いし」

それでも出来ない。

それでいてジャズのセッションや規制曲のカバーでのライブでは、とてつもなく楽しそうに演奏し盛り上がる。


嫌がらせか?

オレは自分が舐められたか嫌われてるのだと思った。


「違いますよ!あなたの曲は大好きなんですよ!」

こうなると理解不能だった。


このごろあちこちのブクマコメで書いていたことだが、「楽器を演奏する評論家」の言うことはオレは信用しないことにしている。実は、この方のエントリを読み思い出したのだ。そういえばそうだったな、と。

確かに音楽を深く追求してゆくと、産む側の気持ちをどうしても理解したい、と思うのは当然だし、もっと探って行きたくなる気持ちも判る。しかし、それが出来たところで、アーティストに追いつくことなど不可能だろう。なぜなら、追いついたら、その「評論家」が「アーティスト」になってしまうからだ。


評論家というものは、音楽を実際にやっている当事者では気づかないことを、なにか見つけたり表現する仕事ではないだろうか、と思う。音楽にストーリーを加える人ってこと。判りやすいように別な視点を加える人。小説などの「あとがき」的なものを書ける人。違うかな?


いろんな自称「音楽好き」と話し、一番気が合ったりするのは「音楽を聴く人種」、もっと言えば「聴くだけの人種」だった。彼らは「聴く」ということに特化しているため、演奏する人種にはありえないような、実に面白い視点で自己流の解釈を述べたりする。なかなか感心することを言うのよね。実際。


ここまで書いてきて判ると思うが、オレはあくまで「自分にとって」という話をしている。


一般リスナーにとっては、例えば楽器をかじってる評論家の分析した、奏法や理論なんかの解説は面白く読めると思う。しかしそういうことは、オレら産む人たちにとっては不要だ。なぜって当事者だから。

だからきっと仲良く出来ない。そっちは勝手に仲間と思ってるか知らんけど「別に仲間じゃないけど?」と言うしかない。アーティストと同じ地平に来て、その最後尾に並び続けるより、ちょっと横の別な地平の一番前目指したほうがよくなくない?って思う。冷たい言い方だけど。


オレは純粋主義だから。結局誰も仲間に入れたくないってことなんだろう。信じるのは自分の音楽と数少ない理解者だけで良い。


これも続き書きたいね。このままじゃ、ものすごく傲慢な人じゃん。

まーでも実際そうですけどねw


関連エントリ
http://d.hatena.ne.jp/mrcms/20071124/1195881005
http://d.hatena.ne.jp/mrcms/20071001/1191198430