あまりにも美しい音楽を聴くと死にたくなる
あまりにも美しく完璧な音楽を聴くと死にたい気分になる。実際これは友人と言っていたのだ。美しい音楽を聴いた時に、死にたくなるような音楽だねぇ…。そうだねぇ…。と。
なぜこのような感情になるのだろう、と最近考える。たぶんそれは、もはやオレらに残されてることがないからだろう。こんな美しい音楽があるのに、これ以上オレらに何が出来るのだ??と。もうこれでいいではないか?と。
友人とそんなことを言っていたのは10年位前のことだった。それがまた再びそんなことを思うようになったきっかけは、クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲をたまたま観て、その挿入歌である「白い色は恋人の色」を聴いたからなのだ*1。
この曲はとっても古い歌なので、さすがのオレもリアルでの記憶は定かではない。しかし、オトナ帝国の逆襲のなかのオトナたちのように、オレはすっかり打ちのめされてしまったのだった。
この曲は70年代初期の日本の古きよき時代の象徴として主に使用されている。つまり、過去は良かった、美しかった、という描写だ。
しかしだ。オレにはそんな振り返って楽しかった過去などあまりない。あまりないはずなのに、むしろつらかったはずなのに、それでも、そんなオレでもとてつもなく懐かしく、死にたいほど美しいと感じてしまうのは一体なぜなんだろうか。
そんなことを思うのは何もこのような日本の音楽だけではない。たとえば古い映画のサウンドトラックとか、本当に良く出来たクラシックとか、ジャンルには関係がなく感じる。
おそらく、だけど、まだ自我が確立する前とかに知らずのうちに聴いていた音楽、そして、意識はしていないが現在の自分の音楽性の形成に非常に影響を与えている音楽だった場合にそうなるのではないか。
つまり自分は、自分自身の作品を日々創り、それを最高な作品にしたい、と願いながらも、実はその音楽性形成時に刷り込まれた音楽が完全無欠である、と無意識に思い続け、常にそこに戻りたい、と考えているからではないか。
そして、どう頑張ってもそれを越えることは出来ない、と聴いた瞬間に悟ってしまい、絶望を感じるからなのではないか。
決して親の元には、母の胎内には戻れないように、その音楽へも決して戻れないのだ。
他人のことなど知る由もないけど、今の若い人たちが絶望を感じているとするならば、この「決して越えることなど出来ない」という無意識な思い込みのようなものがそうさせてるんじゃないだろうか*2。
それが星新一氏の「たそがれ」のような状況を生み出してるのかもしれんな…。
などと考えた。
追記。
ちょっとこれを意識した。
というか前から気になっていたエントリ。
『時をかける少女』を見て死にたくなる人はほかの学園ものを見ても死にたくなるのか? - ARTIFACT@ハテナ系